定型発達の子を持つ親ととASDの子を持つ親の考え方にどうしても違いというのは出てきます。
幼稚園年少ではそこまで親同士の会話はなんの問題もなかったのですが、少しずつずれみたいなものを感じるようになりました。
誰が悪いとかではないので単純にそうだよね、、、ということなんですけどね。
結論はどう生きるかということなんですけど、本当になんでも無いところに気づくようになってしまう。
習い事どうする?
幼稚園にも行きだして、我が地域でも習い事は盛んのようです。そうなると何を習う?なにやているの?とかいう会話が出てくるようになりました。
あ、ですね。こんな会話が存在することを忘れていました。こっちはASDと知的な遅れを言われているのでそんな事夢のまた夢で、今どうやったら定型発達に追いつくのか、同じような暮らしをできるのか、社会生活の自立スキルを得られるのかということで悶々としている。
ですので当然答えられない。「いやまだ考えていないですねぇ」みたいな回答になります。
そうか、世間じゃそういうことを考えるタイミングが来ているんだな。としっかり思いました。
比べることは意味はないけど
こういうことを比べることは本当は意味がないのはわかっている。人には人の事情があって自分にも自分たちの事情があります。
Going my wayで行くことがまずは必要です。そのこともわかって入るんだけど、人と無関係では過ごせない。
そういうときに定型発達の親であれば普通に会話になることも、無駄に傷ついたり、はぁ↓となったりします。
ASDの子どもたちの課題として自己肯定感を高めるということがあります。自身がなくて、これで大丈夫ということの積み重ねが社会性スキルを高めていきます。
予測することが非常に苦手だから、成功例を積み上げていかないといけません。
そういう自己肯定感を親自身も持って接しないとなんかへんに恐縮しちゃうのが子供にも申し訳ないです。
同じ境遇の人と話したい
こう思うことも増えてきました。話すことは共通の話題になります。当然幼稚園とか同じコミュニティに属すれば同じような悩みや話題を持っているのが当然です。
ですので私達も同様な境遇にある人と話したくなります。
無理して話題を合わせるのもお互い疲れてしまうし、こちらのほうが劣っているのでは?とかそういうふうに思うこともあります。
だったら専門のスクールに行くとかイケばいいと思うけれど。
自分たちは定型発達の波に揉まれることで、社会性スキルと自立スキルが育つと思っているわけです。
ですので定型発達の子どもたちに逆に育ててもらうような心持ちもどこかであります。
このメンタルがイケないのかもしれない。自身を持ってASDだっていうことが言えればいいのかもしれないですね。
これからこういう定型発達とのギャップがすごく出てくることが想像できます。本当に不安だし、小学校とかその後のこととかどうなるんだろう、と思わずに入られません。
また引っ越しとかがあるとどうすればいいのか更に悩むでしょう。
子供にベストを
なんにせよ今までは親である自分たちの話です。実際に社会に出て色々と一人でやっていかないといけないのは子ども自身です。
だからこの定型発達の子どもたちと接することで人とのコミュニケーション方法を習得していってほしなと思います。
でもそんなみんながみんな先生ではないし、そんな期待を勝手にされても困るのも事実。
二次障害をうむくらいつらい状況になるのは避けないとと思いますし、そこまで我慢させる気もありません。自分の気持ちを外に出すのが苦手だから、よく子供を見ることと先生に多少甘えることも必要になってくるでしょうね。
自分の子供は一人目だから何が定型発達なのかが分からない。だから外との定型発達の子の親たちとの接点も持っていきたいなと思います。
それでもすぐに違ったと思ったら変更できるような頭は持っていきたいと思います。
親子ともども、自分の意志と経験と努力で人生を紡ぎ出していくことができればいいですね。高橋源一郎さんの言葉をかりました。
おわり